*筑紫野市と二日市東エリア

 

菅原道真が無実を天に訴えたと伝わる天拝山。その眼下に『西の都』近郊が一望できる。 

天拝山の対面には国家祭祀や航海安全の祈願がなされた宝満山が鎮座し、その南の山塊には豊前へと抜ける官道を見下ろすように阿志岐山城が築かれた。朱雀大路の南、万葉集にも詠まれた二日市温泉(次田温泉:すいたのゆ*)は官人や諸寺の僧が疲れを癒す文化交流の場で、その近傍の杉塚廃寺は大宰府と同じ洗練された文様の瓦で飾られていた。 

 

*二日市温泉の名称は、昭和25年(1950)に命名されました。それ以前は、武蔵温泉、薬師温泉、次田温泉(すいたのゆ)と呼ばれていましたが、便宜上、「二日市温泉」に統一されました。福岡県では、100年ほど前までは、二日市温泉が唯一の温泉でした。 

 

筑紫野の地は、現在は絶滅危惧種に指定されている「紫草」という草が覆っていました。 

「紫草」は紫色の染料になるもので、都では冠位十二階の最高位である紫色の染料に使われていました。それが「筑紫野市」の名前の由来となっています。 

 

二日市東エリアは、地名でも、『紫』というエリアがあるように、古代より、高貴な色とされていた紫色の染料の紫草がとれていました。また、約400年前、徳川幕府による統治が始まろうとした時から交通の要衡として栄えました。 

 

1825年3月、薩摩藩主 島津斎興(しまづなりおき)の参勤交代時には、木屋瀬宿から青柳宿から博多宿、二日市宿を経由するいわゆる内宿通りを利用するようになって、二日市で昼の休憩をとり、針摺峠で小休止するようになりました。この時の主要な道路は、現在の紫・六地蔵・石崎・針摺(針摺追分)が使用されていました。その結果、街道や宿場(街並)が整備され、九州各地の諸大名をはじめ、文人や商人などの往来でにぎわいました。 

 

このように二日市東エリアは、古くは、冠位十二階の最高位である紫色の染料に使われていた紫草の採取や、交通の要衡として栄えたエリアになります。